2014年10月13日月曜日



以下は、「らんまる攻城戦記」より


戦国時代、長沼と鳥居川流域を領有した島津氏による大倉城の出城といわれる。千曲川左岸の小丘上にあり、直下に古くからの渡し場があった。千曲川対岸の高梨氏勢力に備え、防御拠点として築いた城といわれる。

第3次川中島の戦いで、葛山(かつらやま)城を攻略し、武田軍は北信濃に着々と手中に治めていった。その猛進撃により、弘治3年(1557)、島津月下斎[しまづげっかさい]は長沼城から大倉城へ退却したが、その際にも手子塚城が利用されたと考えられる。

本郭跡に建つ諏訪神社。周囲を二の曲輪、三の曲輪が囲む輪郭式の縄張り。

社の北側の二の曲輪。

土塁が残る説明板付近

南側は二段に構えた広い郭があるが、畑で改変されてしまい何処までが城域だったか不明

飯山口方面の監視も兼ねていたと思われるが、砦程度の作り。北側にV字の堀切りがあるというが、耕作地の窪みのどこまでを遺跡とみれるのか判断出来なかった。

[出典]
http://ranmaru99.blog83.fc2.com/category3-2.html


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