2014年10月13日月曜日


蘆名 義広(あしな よしひろ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名武将
天正3年(1575年)、佐竹義重の次男として生まれる。天正7年(1579年)、白河義親の養子となるが、蘆名盛隆の子亀王丸が夭折したため、天正15年(1587年)、盛隆の養女と結婚して蘆名義広と名乗り、蘆名氏当主となる。しかし年齢が若すぎたたために家臣団を掌握することができず、天正17年(1589年)、従兄にあたる伊達政宗との摺上原の戦いで大敗し、黒川城は落城、実家佐竹氏の常陸に逃れた。常陸に逃れる際随従した従者の数を、『会津史』は20人あまり、『会津合戦記』は女中を併せて119人と記述している[1]
政宗が奪い取った蘆名領は豊臣秀吉により没収されたが、蒲生氏郷に与えられて義広への返還はなされなかった。その後、秀吉から常陸龍ヶ崎に4万石、次いで江戸崎に4万5,000石を与えられた。盛重(もりしげ、「盛」は蘆名氏通字、「重」は実父・義重の偏諱)と名乗ったのはこの時期であると言われている。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで兄の佐竹義宣が西軍に与したために所領を没収され、慶長7年(1602年)、義宣・義重とともに秋田領に入り、名を義勝(よしかつ)と改め、仙北郡角館に1万6,000石を与えられた。
義勝は、それまでの城下が河川の氾濫や火災にしばしば悩まされていたところから、元和6年(1620年)古城山の南側に新たに町割を起こし、城下を移転させた。これが今日の角館城下町の始まりである。道路の幅員を広げるとともに見通しを避ける工夫をこらし、下水を整備し、防火対策を施して武家地、町人地、寺社を配置した。当初は古城山の中腹に館を構えたが、義勝夫人が城中で妖怪を視たため居館を麓に移したという伝承がある。角館に随従した蘆名家家臣には、稲葉家、河原田家、岩橋家、青柳家などがあり、総勢は200名程度だったといわれる。あわせて、会津若松にあった天寧寺の末寺として山号・寺号をそのままに角館城下東方の花場山の麓に天寧寺を創建、菩提寺とした。
寛永8年(1631年)病死、享年57。


0 件のコメント:

コメントを投稿