2014年10月12日日曜日


古代の自然神は赤城大明神と沼神の赤沼大神として祀られたと考えられる。第10代崇神天皇第一皇子豊城入彦命が東国経営の大任を帯びて上野国に移られた時、すでに山と沼の霊を奉斎したと伝えられ、更に允恭、用明両天皇の御宇社殿を創設し、平城天皇大同元年に山頂大洞に神域を定めて遷座奉斎すると伝えられる。
 尓来朝野の崇敬を受け、戦国時代の前橋城主をはじめ天正18年の平岩氏、慶長6年の酒井氏、寛政2年の松平氏とそれぞれ崇敬し、特に後に幕閣の大老に就いた酒井雅楽頭忠清は寛永18年3月山火事によって類焼した社殿を新造営し併せて神田を寄進し、松平氏もまた毎年祭粢料を献し奉幣使を派遣するを例とした。
 江戸時代に徳川家康公を合祀し大洞赤城神社として山麓諸村の信仰によって守られ、明治に入り赤城山が観光客を迎えるようになると一層有名になったが、社殿が頽廃したため昭和40年新たに神域を小鳥ヶ島に移す議が起こり、昭和45年旧社地大沼南畔の大洞より現在地に奉遷したことは碑陰の遷宮の記に記した通りである。

[出典]
http://blogs.yahoo.co.jp/houzan_ky/38072764.html


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