2014年10月15日水曜日


長沼城址(千世城・牛臥城)
     昭和四十三年四月一日指定

 文応元年(一説に南北朝時代ともいう)長沼氏が、この地に築城したのが起源というが、明らかではない。
 その後戦国時代、ことに永禄三年(一五六〇)頃上り、長沼をめぐる南奥の戦国大名伊達・二階堂・芦名氏の激突が続いた。 遂に永禄九年(一五六六)芦名領となり、芦名盛氏の家臣新国貞通の守城となった。以後、長沼城は、芦名氏の会津防衛および仙道攻略の拠点となった。
 天正十七年(一五八九)芦名氏滅亡後、新国氏も伊達氏に屈服。翌十八年奥羽仕置のため、白河口より入った豊臣秀吉が、八月七日長沼城に宿営している。このとき蒲生氏郷の家臣、蒲生郷安や蒲生主計が長沼城主となった。
 慶長三年(一五八九)上杉領となり、信州長沼城より島津忠直が移城し、同五年の関ヶ原の戦いには、長沼城が上杉軍の前線基地となっている。慶長六年再び蒲生領となり、蒲生郷治・玉井数馬介が城主として配備されたが、元和元年(一六一五)の一国一城令により、戦国の風雲に耐えた長沼城は、栄光の幕を閉じた。

[出典]
http://mo6380392.exblog.jp/i69


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