2014年10月12日日曜日
日本の二大社と言えば、
伊勢神宮と出雲大社の二つを思い浮かべる方も
多いのではないでしょうか。
この二つは凄まじい対立概念の元に成り立っているようです。
出雲大社とはズバリ、大和朝廷以前の中国地方一帯を
治めていた王の魂魄を封じ込めた社と言われています。
当時の豊葦といわれた日本の地域概念は、
おおよそ北九州、中国地方、近畿まで。
その外は国という認識はまだあまりなかったでしょう。
まず邪馬台国が北九州に生まれ(近畿説もあるが)、
また少し後に大国主命のモデルとなった偉大なる出雲の王が、
中国地方を治めていた。当初は近畿には集権国家は
まだ現れていません。
出雲の王は裏側の太平洋側まで勢力を築いていたことが
出土する剣で明らかです。
邪馬台国=鏡、出雲=剣と考えるとお互いの勢力分布が
明らかになります。
出雲族を知るには実は
太平洋側の岡山県(当時の吉備)に残る神社、巨大石遺跡を
みると特徴があらわになります。
剣をシンボルとした出雲族は蛇神をまつっていました。
この名残が出雲大社の大しめ縄であり、
蛇信仰はやがて諏訪神社までたどり着きます。
当時の蛇神は生贄を供えることが多く、
動物からはたまた人柱まで立てました。
その名残が諏訪の大祭でしょう。
崖から丸太(蛇)をおとし、毎年のように
数名の犠牲者が出ています。恐ろしいことにこれは贄の意味があるのでしょう。
剣をシンボルにし、蛇をまつり、生贄をささげる、
という風習は当時の中国の呉からやってきたと言われています。
一方、朝鮮からの渡来人である秦一族などがつくった大和朝廷は
まったく違った宗教体系を作りました。
それは朝鮮の古代宗教と同じく、太陽神です。
伊勢神宮のアマテラスは朝鮮からやってきたのでしょうか??
(実はもっと遡ると、ヘブライ、エジプトの太陽神にまでたどり着くともいわれています)。
大和朝廷はその後、出雲を攻めます。
出雲の大王は殺され、たたりを恐れた大和朝廷は
出雲に国最大といわれる社を造ってまつったわけです。
(菅原道真を神にしたのと同じ方法)。
[出典]
http://spiritual-dev.jugem.jp/?eid=15
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