『戊辰戦争百話・会津』(小島一男著)より
田邊軍次(たなべ・ぐんじ)は田邊熊蔵の伜で、嘉永三年(一八五〇)の生まれであった。戊辰の役においては白河口に戦い、役後は東京で謹慎、のち斗南に移住した。
軍次は斗南移住後も、会津藩の敗北は白河口の敗戦によるものと自責し、その敗因は白坂村の大竹八郎が西軍に間道を教えたためであるとして、八郎を斬る事を公言していた。明治三年七月の某日、彼は単身斗南を発し、八月十一日の夕暮れ近くに白河に到着、すぐその足で白坂村に向かった。
途中、商人に逢って道をたずねたところ、軍次の旅装があまりにもひどいので、相手の男は無礼な応答をした。軍次は怒りこれを斬ろうとすると、男はひたすらに非を謝した。軍次はこのとき、大竹八郎なる者の面体を全く知らなかったので問うてみたところ、男の答えるには、彼は戊辰の戦いで官軍に功があり、今は抜擢されて白坂村の村吏となり、専ら物貨運輸のことを司り、その盛んなことは昔日の八郎ではないという。
これを聞いた軍次は、その男を案内にたてると八郎を斬り、自分もその場で割腹して果てた。八郎の養子直之助が急を聞き、槍を引っ提げて駆けつけたときには、軍次はすでに屠腹した後であった。
この事はやがて白川県にも聞こえ、少属鈴木某がこれを検死、その懐中のものから斗南藩に照会したところ、藩士井上某来り、田邊軍次であることを認知したものの、謹慎中の旧藩主容保に累を及ぼす事を恐れ、これは耶麻郡塩川村付近の肝煎(きもいり)某の次男であると偽り、その死体を村民に引き渡して、同村観音寺境内の共同墓地に埋葬させた。軍次、享年二十一歳であった。一方、八郎の死に対しては、民政局は祭祀料として四百金を給し、その墳墓は官軍戦没者に準ずる計らいがなされた。
それより二十七年が経過、軍次の墓は永く荊棘中に埋没してその跡を知る者もなくなっていたところ、在白河の会津会会員らがこれを知り、明治二十九年八月、その二十七回忌にあたって軍次の遺骨を白河町九番地の会津藩殉難諸士の墓地境内に改葬、弔祭の典を執行したのであった。
[出典]
http://www.geocities.co.jp/bosin100/honmon2/99.html
参考
田辺軍次君之墓
君は会津藩士田辺熊蔵の長子なり。沈勇にして気節あり。戊辰の役会津の敗るヽや東京に幽錮せられ後赦されて斗南に移住す。君在京の日郷人に語て曰く我軍の 敗機は白河の戦に在り。而して白河の一敗は実に大平八郎の叛応に因る。八郎は幕領白坂村の民なり。西軍を導き間道より出で我軍の不備に乗ぜしむ。其恩に背 き義を忘る実に畜獣に等し。吾他日必ず渠の首を刎ねて以て報ゆる所あらんと。聞く者之を壮とす。明治三年七月君斗南を発し八月十一日黄昏白坂村に向う。途 に一売人に逢ひ前程を問ふ。売人其旅装の粗野なるを見て答ふるに無礼の言を以てす。君大に嚇怒して之を斬らんと欲す。其恐怖の状を視て翻然覚る所有り乃ち 問うて曰く。汝白坂村大平八郎を知るや曰く知れり。八郎は戊辰の役官軍に功あり擢でられて里正となる。君曰く可なり。八郎をして来り謝せしめば則ち汝の罪 を宥さんと。益怒を装ひ拉して白坂村役場に到り使丁に告げて曰く。奴輩武士に対し亡状なり今之を斬らんと欲す。急に村吏を喚び来れと。八郎報を得て村吏を 従ひ来り君を見て思へらく。士人年少に気鋭なり一旦の怒に過ぎざるのみ。如かず旅舎に就て徐に之を解かんにはと。乃ち説て曰く。既に暮夜なり請ふ鶴屋に就 て尊慮を聞くことを得ん。鶴屋は貴藩の旅館なりと。君心窃に謀の中れるを悦び共に鶴屋に到る。八郎等百方売人の為に陳謝す君機の既に熟せるを見て密談に託 して衆を退け独り八郎を留む。既にして君厠に上る。少時にして出で来り声を励まして八郎に謂て曰く。汝猶戊辰叛応の事を記すや。余は会津藩士田辺軍次なり と。言未だ終らず刀を抜いて之を斬り面上を傷く。八郎徒手格闘す。君遂に伏せらる。是時舎中大に騒擾す。独り村吏重左衛門之を救はんと欲し八郎の刀を執っ て闖入す。時に燈光暗く甲乙を瓣ぜず力を極めて其上なる者を到す。八郎叫んで曰く吾なりと。重左衛錯愕更に君を斬らんとす。八郎既に力衰ふ。君間を得て重 左を排す。重左微傷を負ひ刀を棄て逃る。君起て八郎を斬り遂に之を寸断す。忽にして村民麕到する者数十人。君終に免る可らざるを知り従容として腹を屠て死 す。嗚呼何ぞ壮なる哉時に年二十一。村民屍を同村観音寺域内に埋葬す。爾来星霜二十有七慕碣永く荊莿中に隠没し人其事跡を知る無し。明治二十九年其二十七 回忌に当り在白河会津会員は胥謀り八月遺骨を白河会津藩戦死諸士の墓側に改葬し其事蹟を石に刻して之を建て千祀に伝ふ。庶幾くは君以て瞑す可し。
会津 高木盛之輔 撰
会津 上野良尚 書
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