奴田山の名称由来を検討するには歴史のみならず風俗や習俗など庶民生活に係わる視点も必要である。はじめ
に歴史上小田山城主であった葦名氏(三浦氏一族)に触れ問題解決の糸口とする。
なお「奴と怒」とは当て字関係にある事に加えて、奴田(ぬたやま)の呼名が「どたやま」か、さらには「ぬ
だやま」か、何れが正しいかなどの点は興味深いので後に触れたい。
[出典]
「奴田山(青木山)・・・その山名について考える」渡邉 幸夫
小田山城は会津葦名氏(三浦一族)の砦(詰城)である。この城は小田山地区と荒佐原山(あらさわらやま)・
奴田山(どたやま)地区に分けて築かれたという(鎌倉時代末に小田山部分、南北朝時代に奴田山地区、その後
に荒佐原山)5)。三浦氏の本拠は相模国(三浦半島)の衣笠城であるが、他に奴田城(怒田城、横須賀市吉井)
や佐原城(横須賀市佐原)がある。そこで奴田山や荒佐原山の名称は三浦一族の奴田城や佐原城のそれに由来す
るとも推論し得る。本来の奴田城(怒田城)は平安時代末期の地形を活かした要害であり(築城者は不明)、ま
た佐原城は佐原義連により築城されたという。
[出典]
「奴田山(青木山)・・・その山名について考える」渡邉 幸夫
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