長沼藩の盛者必衰の巻6(江戸時代)
長野市の最北部にあたる長沼という場所に藩がありました。藩の中を千曲川が南北に流れ、周辺にはリンゴ畑が広がる平らな土地です。
元和2年(1616)佐久間大膳亮勝之が長沼城に入り、長沼藩が成立しました。これと同時に兄の佐久間備前守安政が飯山城に入っており、兄弟で北信濃の北部を占めていました。
所領は長沼、津野、赤沼、吉、田子、三才、金箱、駒沢、富竹(以上、長野市)、村山(須坂市)、相之島(須坂市)など17村と近江国高島郡10村とを合わせて1万8千石を与えられました。2代勝友の時に、甥の勝盛に長沼5千石を分知して長沼居館に住まわせて長沼知行所(旗本)としました(正保4年廃絶)。3代勝豊の時には、弟の勝興に赤沼3千石分知し、新館に住まわせて赤沼知行所(旗本)としましたが、次ぎの盛遠の代に改易となりました。
やがて、本家である長沼藩も4代佐久間勝茲の時に、元禄元年(1688)徳川綱吉の機嫌を損ねて、逼塞・改易を言い渡されました。勝茲は二本松藩に配流となりそこで没しました。これにより長沼城は破却され、領地は天領となり長沼藩73年の歴史は終わりました。
佐久間勝之1
佐久間勝友2 →佐久間勝盛に分知し、旗本とする。勝盛の代に改易
佐久間勝豊3 →佐久間勝興に分知し、旗本とする。→盛遠の代に改易
佐久間勝茲4
[出典]
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/minotigun.htm
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