2014年10月15日水曜日


古墳には千曲川からの大量の玉砂利が敷き詰められ、傾斜面は60㎝ぐらいの葺石(ふきいし)が美しく覆われました。後円部分の竪穴式石室には主が埋葬され、さらに古墳の周辺にも百基近い小さなお墓(約300年間、大化改新の頃まで造られ続けた)が造られました。
 古墳内部には、三角縁神獣鏡、勾玉、ガラス玉、馬具、剣・鏃などの鉄製武器が埋葬されており、三角縁神獣鏡は卑弥呼に関係する鏡で中国の鉛が使われ、鉄製具は朝鮮半島の磁鉄鉱石が使われていることから、大和朝廷と深い関わりを持った人物が埋葬されていると云われています。また、出土した大甕は大阪で作られたもので、こうしたことから古墳の主は、大和朝廷から派遣された者、あるいは従属した在地の豪族であると云われています。
 森将軍塚古墳(全長100m)と千曲川を挟んで西側には川柳将軍塚古墳93m(長野市)があり、その他善光寺平には倉科将軍塚古墳73m(千曲市)、土口将軍塚古墳67m(長野市)などが築かれました。そして森将軍塚古墳が築かれてから約150年後(西暦500年代)、科野のくにで古墳が築かれる地域は飯田地域へと移りました。
 712年に記された『古事記』に、科野国造(しなののくにのみやつこ)と書かれています。この「科野」の字は、やがて「信濃」に変わっていき、「科」の字は森将軍塚古墳がある更科郡(現在は更級郡)と、その南の地域を指す埴科郡に引き継がれていきました。

[出典]
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/minotigun.htm




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