島津忠直について
島津 忠直(しまづ ただなお、生年不詳 - 慶長9年8月1日(1604年8月25日))は、信濃長沼島津家の国人。島津長忠の子。通称、喜七郎、淡路守。号は下々斎、月下斎、昔忠。
戦国時代、信濃国長沼城を本拠地とし、村上氏、高梨氏らと共に武田信玄の侵攻に抵抗した。しかし弘治3年(1557年)にその地を離れ、上杉家の家臣となる。天正10年(1582年)、武田氏滅亡後、北信濃の領主となった森長可の組下に入ることを強要されたがこれを拒み、芋川親正と共に反抗したが敗れて長沼城を追われて上杉景勝を頼り越後へと落ち伸びた。本能寺の変後、森長可が退去した事により上杉家が北信濃を所領に組み込んだ際に長沼城に復した。
その後、家督を嫡男の義忠に譲り、慶長3年(1598年)の上杉氏の会津移封の際にはそれに従って信濃を去り、陸奥長沼城を与えられた。同年、嫡男・義忠が死去したため、岩井信能の子・利忠を義忠の娘婿にして家督を継承させた。
慶長9年(1604年)8月1日、死去。戒名は忠広院殿嶋全翁大居士。
和合城
築城年代は定かではない。村上氏が葛尾城南東の支城として築いたものと考えられており、虚空蔵山一帯に築かれた村上氏連珠砦の一つである。
村上氏没落後は武田氏の家臣多田氏が守ったと云われる。武田氏滅亡後は上杉氏の属城となり、徳川氏に属していた真田氏の抑えとして上杉氏の家臣島津忠直が守った。 天正11年(1583年)徳川家康の意に従った加津野昌春が上杉方の守将である島津忠直に国境の警備を緩めるよう工作したが失敗している。上杉氏は徳川方の攻撃に備える為、飯山城将の岩井信能に対し、上倉元春を将としてことごとくの人数を速やかに虚空蔵山に移すよう命じている。
[出典]
http://www.hb.pei.jp/shiro/shinano/wago-jyo/
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