2014年10月15日水曜日


島津忠直について

天正18年(1590)8月の、奥州仕置と軸を一にして、豊臣秀吉は出羽庄内3郡の仕置を上杉景勝に命じます。ここでいう仕置とは、有名な検地や刀狩と思ってよく、秀吉側近の大谷吉継がサポートし、仕置対象地域は出羽西部にまで広がります。
 実は翌年(天正19年・1591)になって、大宝寺義勝と父・本庄繁長は、一揆発生の責任を問われ、所領没収の上、大和(奈良県)に流罪処分となります。
 従って、上杉分国に庄内が正式編入されるのは、少し後かもしれませんが、その版図は着実に拡大していきます。
 ここで改めて、豊臣秀吉が実施した一連の仕置を俯瞰すると、東国支配の絵柄が浮かび上がってきます。<関東管領=徳川家康、陸奥探題=蒲生氏郷、出羽探題=上杉景勝>という態勢です。
 探題とは、武家政権において地方の軍事・行政・裁判を執行する出先機関を指します。ただし、秀吉がその言葉を使ったわけではありません。
 関東の代償として、豊臣秀吉は出羽統治権を上杉景勝に与えようとしました。出羽は東国取次役・上杉景勝の管轄地域だったから、感情面はさておき、筋の通らない話ではありません。

 蒲生氏郷病没後、秀吉は会津に上杉景勝を移します。それは陸奥探題が不在になったため、出羽探題が奥羽両国の探題を兼務するための措置。
 豊臣秀吉から厳しく処分された伊達政宗や最上義光が、重要ポストに登用されるはずがありません。全体の構図とは、このように読み解くべきものでしょう。

 話を戻すと、8月下旬、上杉景勝は庄内に入り、諸城に重臣を配置して仕置を命じます。
 現在の山形県鶴岡市にあった尾浦城には島津忠直(北信濃国人衆)、大宝寺城には木戸元斎(旧武蔵衆)、藤島城には栗田国時(北信濃国人衆)、山形県酒田市にあった東禅寺城には須田満親(北信濃国人衆)・・・・・・、といった具合に。
 注意すべきは揚北衆が見当たらず、北信濃国人衆が登用されている点です。比較論でいえば、春日山城に詰める北信濃国人衆のほうが、譜代に近い扱いだった、と理解すべきなのでしょう。なお、この登用方針は会津移封後も踏襲されます。
 そして庄内は、天正19年(1591)から直江兼続に統治が委任されます。兼続は、佐渡同様に上田衆&与板衆を代官として派遣することになります。
 この時点の上杉分国の範囲と規模を記すと、以下のとおり。総石高91万石となりますが、確実な史料は存在せず、佐渡などは江戸期の石高といわれます。
●越後1国・7郡:45万石
●信濃川中島・4郡:18万石
●佐渡1国・4郡:14万石
●出羽庄内・3郡:14万石

[出典]
http://blog.livedoor.jp/golden__cadillac__/tag/島津忠直


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