南北朝時代から太田庄の地頭として勢力があった島津氏が長野市穂保に築城し、一族が代々居城とした。築城時は堀と土塁で囲んでいたようであるが、江戸時代に書かれた「長沼古城の図」によると、平城であるが東方は千曲川で防護し、西南には武家屋敷、北方は大手門と冠木門で固めており、小規模ではあるが近世城郭に近い総構えであったという。武田軍の侵攻が迫ってくると、島津氏は大倉城へ移った。
川中島合戦から7年後、武田軍は本拠地を海津城から長沼城に移し、飯山城など北信濃攻略の前線基地に使ったという。1582(天正10)年、武田氏が滅亡すると織田家臣の森長可が海津城に入り、北信4郡を支配したのであるが、織田氏の支配に反発した地元の芋川氏らによる「善光寺一揆」が勃発し、多くの犠牲者を出した。同年、本能寺の変で信長が討たれると森氏は当地を追われ、以後は上杉氏の領地となり、長沼城には島津忠直が入り、統治をしたのである。
慶長年間に島津氏は上杉氏の会津移封に従ったため、子孫は上杉の家臣として米沢に根を下ろしたのである。
江戸時代になって長沼藩1万石で佐久間氏が入部したが、元禄年間に幕命に従わなかったため改易されてしまい、佐久間氏4代をもって廃城となった。
戦国期から江戸時代にかけて多事多難の長沼城であったが、これも北国街道の要衝の地であったことが否応なく権力者の争奪の場となってしまったといえる。現在、城跡の大部分は果樹園となっているが、千曲川左岸堤防下に「長沼城址」の石碑が立ち、ケヤキの古木と苔むす祠、五輪塔がわずかに往時をしのばせている。
長沼宿場通りのほぼ中央には長沼神社がある。戦国期の永禄年間に武田信玄が神殿を再建し、自らケヤキの木を植栽したと書かれている。境内にあるケヤキの古木が信玄公手植えの木とすると、今年で447の年輪を刻んだことになる。
(2012年5月26日号掲載)
[出典]
http://weekly-nagano.main.jp/2012/05/30-4.html
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