2014年10月14日火曜日
9月19日。
御近習二ノ寄合に昇進した。
当時父は西出丸にあって、私のいる豊岡とは数丁ばかり離れていたが、日暮れてから互いに往来して安否を確認していた。
「まだ死んでいなかったか」
というのが、この頃城中一般の挨拶であった。
酒井又兵衛、という藩士がいた。
この者はあろうことか城内にあって賊と通じ、これが発覚して捕縛され、城南五軒町にて斬首された。そしてその首は竹で組んだ三叉で天守閣下に梟された。
多くの者は酒井の所業に激怒し、その首に唾を吐きかけない者がいないほどであった。
「早く来て見てみろ」
ある日、父がそう言ってよこした。
行ってみると、父は私を倉庫の軒下まで連れて行き、声を低くして諭すように言う。
「我軍は日々減少し、賊勢は日々上がっている。四方を大軍に囲まれて早や二十日、援軍ももはや当てにはできず、我勢は旦夕に迫り、危うきこと累卵の如くである。風聞ながら『誰それは脱走して行方がわからない』とか『誰それは武士を捨てて百姓町人にの間に潜伏してしまった』などという話が広まっており、甚だしきものでは親が子を説得して脱走させているとすらいう。昨夜もある者が来て、我子を脱走させるべきだと言った。しかしながら熟々思うに、藩祖土津神君が信州高遠より山形に転封となり、その後会津にお移りなられたときに我家は家臣となったが、すでに200余年君恩に浴している。いまや主家の危うきを見て我家の者のみの生存を図るなどということは君臣の義にあらず、御先祖に対しても不孝であり、君公に対してはこれに勝る不忠はない。お前は若年ながら15歳を過ぎている者であれば、このくらいのことは自明の理であろう。国の存亡安危を顧みず、一身の安全を望むなどということは武門の恥である。お前が死んだと聞けば、わしもただちに自刃して黄泉の旅路を共にしよう。しかしわしが死んだとて、お前は道を誤ってはならぬ」
父の言うことは、まったくもってもっともである。
「このこと、寝ている間も忘れてはならぬぞ」
私はこれを聞いて知らず知らずのうちに戦慄が走り、言葉を発することができず、ただ首を垂れて黙っていた。
しばらくしてようやく言葉が出た。
「謹んで父上の厳命を了解しました。君恩に報いるはこの時にあり。安易に左右の人の行動を倣うことはありません。どうかご心配なさいませぬよう」
父は大いに悦んで言った。
「わかってくれて嬉しい。くれぐれも自愛せよ」
そして父とはその場で別れた。
[出典]
暗涙之一滴
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame9/anrui.htm
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