2014年10月12日日曜日


阿原

 話を、マーキングしたままの(河原)に戻します。実は、「河原に鎮守」が比定できていません。これを「中河原村の古名」とすればコースの順からは外れてしまいます。悩んだ末に、江戸中期の『諏訪藩主手元絵図』の「小和田村」に注目しました。村の右半分には、赤沼・福島・金子・文出の各村に接する広範囲の部分に「大阿原(おおあわら)」と書かれ、文出村や福島村の絵図にも、この続きと見られる「阿原」が見られます。
 私は、(『諏訪史料叢書』に載る)『祝詞段・根元記』の「河原」は、“阿原”の間違いと考えてみました。
八劔神社(小和田)
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』
 当時は同じ字を使ったのか、または筆字の「阿」を編集者が「河」と読んだのかは別として、「あわら」を漢字に変換すると「荒原・悪原・葦原」などの候補を表示します。これで、阿原は(すでに)イメージとしても“確定”できたと思います。
 【阿原】は諏訪独自の表記で、諏訪湖面が低いと水面に出、ひとたび上昇すると水没する不安定な低湿地のことです。湖面の上昇で収穫が皆無となる年もあるので、年貢高は、その年の状況(検見)で決めたそうです。
 これで、「阿原の鎮守」が「高島八劔辯才天」に掛かっているとする読み方が浮上しました。この方向に沿うと、かつての八劔は、雨を司る「八竜」であった可能性も出てきます。また、「八劔」としては、「明治以降の名称」とある小川の八劔神社もかつては八劔社と考えられ、福島の御頭御社宮司社が「かつて八劔社と呼ばれた」ことも何か符合してきます。

[出典]
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/awara.htm


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