2014年10月18日土曜日
斗南藩の成立に先だって、旧会津藩士の身分のまま「流罪」の形で品川より北海道の小樽へ移された約二百戸の人々がいた。第一便は会津落城後一年がたった明治二年九月二十一日に小樽到着、第二便は大坂丸によって九月三十日に到着した。
函館五稜郭に結集していた榎本武揚らの旧幕軍は、五月十七日降伏し、明治新政府による日本統一は完了した。この時、政府のなかには旧会津藩士を唐太・北海道に移し、反政府の軍事力とさせないと同時に、ロシアの南下に備える軍事力の一部とさせる構想が形成されていた。
明治政府兵部省に所属し、小樽で待機していた百七十四戸約七百人の旧会津藩士の第一陣は開拓使庁に委託されることになり、一人一日玄米一升、銭百文を支給されて余市の漁業者宅に落着いた。
ロシアの南下を恐れていたのは明治政府ばかりではなく、幕末以来ニシン漁に湧いていた余市周辺の漁業関係者も同様であったから、かつて北辺警備を担ったことのある会津武士団の来道は、明治政府の後楯も明瞭であったから心強い存在として暖かく歓迎された。
明治二年十一月四日、太政官から家名の再興が許された。
旧会津藩士とその家族が南部(斗南)に移住したのは翌明治三年四月から、年末にかけてのことであった。勿論、南部三万石の新封地では、旧藩士をすべて移住させることはできなかった。結局は希望者を募ることになったが、この結果は会津などで帰農した(武士をやめた)者七百戸、東京やその他各地に移ったもの三百戸、既に北海道などに渡ったもの約二百戸であった。こうして四月十九日、南部に移住するものの第一陣三百名が八戸に上陸した。新藩名を“斗南”とつけたのは七月のことであった。
斗南移封(明治三年)
陸奥国三郡
・北郡 (青森県上北・下北郡)
・三戸郡 (青森県三戸郡)
・二戸郡 (岩手県二戸郡)
のちに北海道の次の四郡も支配を命ぜられた。
・後志(しりべし)国のうちの瀬棚郡 三年に五戸、四年に八戸
・太櫓郡・歌棄郡 四年に二十八戸
・胆振国のうちの山越郡 十一戸入植
・明治二十五年 丹羽五郎によって後志に丹羽村開拓される。
・明治二十九年 若松の経済人によって瀬棚郡北桧山に若松村開拓される。
[出典]
http://www.geocities.co.jp/bosin100/honmon2/97.html
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